舟橋 淳一
Junichi FUNAHASHI
 

「…たら、…れば」から未来をひらく

石巻市震災遺構大川小学校
 



まだまだ油断は禁物とは思いつつも、ようやく旅行にもそれほど気兼ねすることなく出かけられるようになってきました。今年8月に、震災遺構となった石巻市立大川小学校で、遺族でもある語り部の方からお話を聞く機会を得ました。そこで感じたこと・考えたことを書いてみます。

一般に「たられば」は無益な後悔として「ダメなこと」と捉えられています。もちろん悔やむだけでは「ダメ」なのですが、次に似たような状況になった時、どうしたら良いかを考えておくことは、とても意味があることです。ヒトの脳の進化は、環境の変化など様々な事態に対して、経験に基づいてより良く対処する方法を考えられるように進んできたのだと思います。それが、哺乳類の中でもどちらかと言えばひ弱な我々=ホモサピエンスが生き延びる術だったし、これからもそうであり続けるでしょう。

さて、大川小学校の体育館の裏には、小高い山があります。実際に現地に行ってみると、予想以上に近いので驚きました。体育館は今や校舎寄りの倉庫部分と舞台側両かどの壁だけが形をとどめているのみですが、その舞台の裏側の細い道路を挟んですぐに斜面が始まっています。語り部の方の先導で登ってみると、離れた所から見た時は少し急に見えたのですが、実際にはいとも簡単に登れる斜面でした。2007年までは毎年子供たちが、この斜面を登って椎茸栽培の原木を運び、体験学習をしていたそうです。そこからさらに少し登ったところ、ちょうど10メートルほどの高さに、幅約4メートルのコンクリート製のプラットホームが斜面の端から端まであります。2003年3月ごろにおきた崖崩れを受けて整備された斜面崩壊対策だそうで、我々が登ったところよりさらに上にもあと3段作られているそうです。震災当時の大川小の児童数は108名だったそうですが、100人ぐらいなら余裕で座れそうだと思いました。その場所から、校庭がすぐ目の前に見えます(写真)。おそらく1年生でも5分程度で校庭からここまで登ってこられたでしょう。震災当日は残雪のため斜面がぬかるんでいたかもしれませんが、パニックになっていない状況なら、みんなで助け合って全員避難できたと思います。地震発生から津波の到達まで51分(校舎内の全ての時計が同じ時間で止まっていたことから)、校庭に二次避難してからでも40分はあったそうです。

そのプラットホームに立ち校庭を見渡した時、「ここまで登って来たらみんな助かったのに!」と思わず口にせずにはいられませんでした。校庭からこの場所まで実際に登って傾斜や距離を体感すれば、誰でも同じように感じるでしょう。遺族の方々のやるせない気持ちを想像すると、胸が締め付けられるようです。当時校庭にいた児童80名たらずと11名の教員のうち、助かったのは児童4名と教員1名だけでした。

大川小のケースでは、石巻市の教育委員会の対応や第三者検証委員会の報告書に疑問を持った遺族らが、宮城県と石巻市を相手に民事訴訟を起こしました。二審まで争われた結果、2019年に県の責任に加えて市教委まで含めた「組織的過失」が認定された判決が確定しました。避難場所をしっかりと決めていなかったことも問題とされました。

私たちは、この「経験」から何を学んで、将来にどう生かすべきでしょうか? 「組織的過失」を産んだ背景は、どこかで現代を覆う閉塞感の原因とも結びついているように感じます。それらを深く掘り下げて考え続けることが、人類の未来をひらく事にもつながっていくと思います。

震災から10年近くが過ぎた2020年11月4日に、宮城県教育委員会は初めて、新任校長90人が遺族の話を聞く研修を旧大川小学校で開きました。語り部の方がこれについて、「ようやくスタートライン」とおっしゃっておられたのが印象的でした。

旧大川小学校の校歌には「未来を拓く」というタイトルが付けられていたそうです。また、体育館の前に扇型の野外ステージがあるのですが、その外壁に色鮮やかに描かれた壁画の左寄りにも、同じ「未来を拓く」という文字が、今もくっきりと書かれています。まるで何らかの啓示のように。
(この文章は、とあるコミュニティ向けの会誌に寄稿したものに加筆して投稿しました。)

名 前:舟橋 淳一(ふなはし じゅんいち)

出身地:愛知県
趣 味:機械いじり・日曜大工・ネット検索
分野名:呼吸器外科学分野