荒井 啓行
Hiroyuki ARAI
 

関ケ原経由土佐行脚

南国土佐へ行って参りました
 


毎年恒例の同志社大学大学院課程での授業を行なうため、平成29年も新幹線で京都に向かった。平成29年の講義タイトルは、「アルツハイマー病の克服に向けて」である。敢えて新幹線を利用する理由は、1つは天候に恵まれれば車中から富士山を遠望できること、2つ目は岐阜羽島駅を過ぎ「関ケ原古戦場」近くを通過する際に何とも言えない「トキメキ」を覚えるからである。平成29年夏、司馬遼太郎原作の小説「関ケ原」が映画化された。石田三成を演じる俳優は岡田准一氏、一方の徳川家康を演じるのは俳優の役所広司氏である。石田三成は思いを寄せる初芽という女性(架空の人物らしい)に「この戦いが終わったら、初芽を連れて世界各地を巡り、多くの人々と交流を深めたい」と夢を語るシーンがあるが、これこそが司馬遼太郎が読者に一番伝えたかったことではなかろうかと思った。小早川秀秋らの寝返りがなかったら、石田三成率いる西軍の勝算も少なからずあったのではなかろうか。もし、石田三成が勝っていたら、日本は多くの外国人が行き交う多民族国家となっていたかもしれない。或いは近隣の大国に制圧・絡めとられたかもしれない。鎖国や参勤交代を断行した「内向きリーダー」の徳川家康とは正反対の外向的リーダーがこの国に誕生した可能性もあったのではなかろうか。しかし、現実は大阪の陣を経て徳川時代へと向かうことになる。

翌日は高知市内での講演のため、大阪から空路で高知へと向かった。JR高知駅前に坂本龍馬、中山慎太郎に加えて武市半平太の銅像が建てられていることをご存知だろうか。坂本龍馬と中山慎太郎はよく知られている幕末の士であるが、武市半平太を理解するのはいささか大変である。土佐には戦国時代から長宗我部元親を長とする土着の武士団があった。長宗我部一族は豊臣秀吉の軍門に下ったが、関ケ原の戦いで徳川家康が勝利すると家康は長宗我部一族を排除し、代わりに尾張掛川城主であった山内一豊を新しい土佐の統治者として送り込んだ。太平洋戦争後にマッカーサー元帥率いる進駐軍が日本統治を行ったのとよく似ている。坂本家や武市家は旧長宗我部グループに属し、山内家に属する支配者層を上士と云ったのに対して、彼らは「郷士・下士」と称される二重構造であった。武市半平太は上士も郷士も商人も農民も等しく天皇に仕える民として平等であると考えて「土佐勤王党」を設立した。坂本龍馬も土佐勤王党に入ったが時勢の流れは速く、すぐに脱藩している。武市半平太は岡田以蔵(別名 人斬り以蔵)に命じて藩主山内容堂の家臣であった吉田東洋を暗殺したとされている。岡田以蔵は、勝海舟の用心棒を務めたこともあったそうだが、山内容堂に捕えられ投獄された。獄中拷問により自白を迫られていることを知った武市半平太は岡田以蔵を毒殺しようとするが失敗。ついに岡田以蔵は武市半平太の指図により吉田東洋を暗殺したことを自白してしまう。そして、山内容堂の命により武市半平太は切腹の上自害となった。その武市半平太がJR高知駅前で坂本龍馬や中山慎太郎と並んで県民の賞賛を浴びているのは意外でもあった。それにしても11月というのに南国土佐の空は真夏のように晴れやかだ(写真下)。高知県は四国山脈によって他の3県と隔てられ、この明るい太陽の光を受けながら独自の文化を形成したに違いない。「土佐勤王党」もその中から生まれてきたと感じた。黒潮に洗われた薩摩、土佐および紀伊の国々はどこか東南アジアの匂いを感じて面白い。

次回は臨床腫瘍学の石岡先生です。

名 前:荒井 啓行 (あらい ひろゆき)

出身地:群馬県
趣 味:旧所・史跡を廻りこの国の原風景を探ること
分野名:老年医学分野