荒井 啓行
Hiroyuki ARAI
 

「日の本中央の碑」に思うこと。

平成28年の夏休みは青森県上北郡東北町に保存されている「日の本中央の碑」を訪ねた。
 


平成28年の夏休みは青森県上北郡東北町に保存されている「日本中央」と刻まれ「つぼのいしぶみ」として知られている石碑を訪ねた(上の写真左)。「つぼ」とは、古来このあたりの東北町や七戸町が「都母」と呼ばれたことに由来するらしい。石碑の発見は昭和24年に遡る。1.5mほどの楕円形の丸石の表面に「日本中央」の刻み文字が読み取れる。大和朝廷による蝦夷征伐の征夷大将軍坂上田村麻呂が建立したとする説と坂上田村麻呂は盛岡近郊の志波城までしか至っていないので、坂上田村麻呂に続いて征夷大将軍となった文室綿麻呂が建立したとする説があるらしい。さらに、この石碑自体が近代において手を加えられた偽作と考える学者もいたそうである。「日本中央」の「日本」は「ひのもと」と詠み、大和朝廷の権力支配が及ばない蝦夷の地という意味であるとパンフレットには解説されている。しかし、文字通り北方領土・北海道から沖縄・尖閣諸島へと続く「日本列島」の中央地点が青森県付近であるとは解釈できないものだろうかと勝手に考えてみた。

実際、同年7月にカナダトロントで開催されたアルツハイマー病国際会議からの帰路、エアーカナダ機内のフライト航路画面でカムチャッカ半島側から見た日本列島がリアルに描かれていた。通常日本列島は赤道側から北極側へ見上げるような形で表示されることが多いが、北から見下ろすと、千島列島(クリル諸島)と樺太(サハリン)の延長線上に交わるように北海道が位置し、さらにアジア大陸を縁取る破片のように日本列島が浮かんでいることに改めて気付かされた。かつて、カムチャッカ半島、千島列島、樺太、アムール川流域を生活圏とした「オホーツク人によるオホーツク文化」が奈良~平安時代の北北海道にまで及び、続縄文文化や擦文文化などとは異なる文化圏を形成していたことが近年明らかにされつつあるようだ(瀬川拓郎著 「アイヌと縄文」 ちくま新書 2016年)。そう考えると、この「日の本中央」とは縄文・弥生・大和朝廷と続く日本文化圏とオホーツク文化圏を合わせた広域東アジア文化圏を壮大に構想したものではなかろうかと思われ、青森県付近がその中央に位置するから「日の本中央」と刻んだのではなかろうか(このブログの原文は平成29年度医学部バドミントン部誌に掲載した)。

次回は臨床腫瘍学の石岡先生です。

名 前:荒井 啓行 (あらい ひろゆき)

出身地:群馬県
趣 味:旧所・史跡を廻りこの国の原風景を探ること
分野名:老年医学分野